偉人伝・坂本龍馬①#10
参考文献
司馬遼太郎著「龍馬がゆく」
町田明広著「新説 坂本龍馬」
この混沌とした時世だからこそ、人々の心をつかんで離さないようなヒーローをみんな待っているような気がしています。
そんなことを考えていたときに、1番に頭に浮かんだのが明治維新の立役者と言われる坂本龍馬です。一介の郷士(武士の身分をお金で買った家系)であった坂本龍馬が、どのようにして英雄となりえたのか、ちょっと調べてみました。
すると、小学生の時に読んだ伝記や、歴史漫画などで覚えた坂本龍馬像と少し違っていました。研究が進むにしたがって事実が明らかになっていく。以前教えてもらった内容と全く違う事実が判明する。こういうところも歴史のおもしろいところです。
まず知らなかったのが、坂本龍馬は2度目の脱藩以降、その多くの活動を薩摩藩士として行っていたということです。土佐藩を脱藩して、浪士の身分で様々なことを成し遂げたようなイメージを持っている方も多いかと思いますが、浪士というのは現代で言うところの国籍不明、住所不定のようなものです。
そのような人物が藩の要職に就いているような人物と謁見するなどということは、身分制度が厳しい江戸時代では現代よりも難しいことでした。つまり、いっぱしの身分でないとそういった交流もできなかったということですね。薩英戦争で多くの志士を失った薩摩藩と金銭的なことも含め後ろ盾がほしい坂本龍馬たち土佐浪士、利害関係が一致したというのが理由だったようです。
坂本龍馬の1番の功績と語り継がれているのが薩長同盟の橋渡しの役目を果たした、もっと言うと薩長同盟を発案したのが龍馬本人だとも言われています。しかしながら近年の研究により、これは全くの創作であることがわかっています。そもそも薩長同盟というものはなく、それに似たような約束が微妙に交わされただけのようです。当時長州は幕府に真っ向から対抗しており、西国の雄藩であった薩摩藩と手を組みたいと考えていました。薩摩藩の藩主も幕府を解体させなければという考えを持っていたのですが、やはり表立って幕府と反目はしたくない。したがって真っ向から幕府と反目する長州と手を組むことにかなり慎重になっていました。事実何度も意見のすり合わせのために薩摩藩と長州はやりとりをするのですが、その際毎回薩摩藩側から派遣されていたのが坂本龍馬というわけです。最終的に長州側の桂小五郎が押し切る形で薩長は手を結ぶのですが、その際の証人として、特に長州側が坂本龍馬を大切に扱ったというのが真相なようです。
日本最古の株式会社といわれる亀山社中というものも存在しなかったり、日本の将来とるべき道を船の上で語ったといわれる船中八策もフィクションということでほぼ固まりつつあるようです。
ここまで書くと、ずいぶん坂本龍馬は持ち上げられて後世に語り継がれています。しかし、星の数ほどいた維新の志士の中で、なぜ龍馬がクローズアップされたのでしょうか。
これにもきちんと理由がある。僕はそう考えています。
本来なら1回でまとめたかったのですが、どうにもまとまらないので今回が「坂本龍馬、過大評価編」、そして次回を「坂本龍馬、真の功績編」と内容を分けて、書き綴っていきたいと思います。