偉人伝 李光耀 ①#51
参考文献:リー・クアンユー回顧録
日本戦後史上最長の政権がまもなく終わりを告げるようですが、今の日本に本当に必要なのはこういう人だと僕は思います。
シンガポールの首相を25年にわたって勤め、マレー半島の先端の小国を光り輝く経済大国に成長させた李光耀(リー・クアンユー)。イギリスが支配していた時代に客家系華人の4世として生まれ、祖父はイギリス人の乗り込む貿易船で働く裕福な家に育ちます。この祖父の影響を大きく受けて李光耀は英語で教育を受けるようになります。光耀という華名とともにHarryという英語名も授けられ、幼い頃からとても優秀であったようです。逆に中国語はほとんど話すことができず、マレー語と英語を使ってコミュニケーションをとる青年でした。
ラッフルズ大学(後のシンガポール国立大学)に進学、勉学に勤しんでいた最中、太平洋戦争による日本軍のシンガポール占領という事態に巻き込まれます。大学は閉鎖、闇市で物を売って生計を立てる生活となります。
シンガポール華僑粛清事件の際は、李光耀も対象になっていて集合場所に集められたのですが、何か嫌な予感を感じて逃亡。難を逃れます。その後は中国語と日本語の学習を始め、日本軍とともに働くことを選びます。連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する仕事をしていました。
当時は連戦連勝だと報道していた日本軍ですが、英語が堪能であったことから戦局は連合国側に有利だということはいちはやく掴んでいたようです。そして「耳慣れない爆弾が、ヒロシマとナガサキに落とされた」という情報を得た後、日本の植民地支配は急に終わりを告げます。
再びイギリスの支配に戻ったシンガポールですが、戦前の紳士然とした、優雅なイギリス人はそこにはいませんでした。戦前「極東の小さな国が何か騒いでいる」くらいの意識でいたイギリス人は、その極東の小国が攻め込んできた時にはほとんど戦いもせず、我々現地の人間を見捨てて一目散に逃げ回った。新しく支配した日本軍は、聞いていたのとはまるで違う激しさと強さを持っていた。この約3年半の間で、人間について深く考えるようになったと、李光耀は後に思い返しています。
戦後の混乱した中を、李光耀は再び闇市でいろんなものを売って生計を立てていきます。売るものがなくなった時は建設業の仕事を請け負い、現地人を何人か使って仕事をするようになります。とてもたくましく生きていきました。
そしてそんな時、ラッフルズ大学が再開。彼は弁護士を志し、イギリスに留学をしたいと思うようになります。
余談ではありますが、大学の成績発表の時、秀才で通っていた李光耀は第2位という成績でした。第1位だったのは柯玉芝(クワ・ゲオ・チュー)という女性で、後の李光耀の妻となります。
無事にケンブリッジ大学への留学試験を突破した李光耀。ここからまた、彼は多くのことを学んでいきます。