偉人伝 李光耀 ②#52
さて、弁護士を目指すべくケンブリッジ大学に留学した李光耀ですが、そこで体験したのはしっかりと存在する人種差別でした。素晴らしい仲間ともたくさん出会えたのですが、そういう人は白人の中でも珍しい方の人間だったと知ります。「自分たちはイギリス人に守られていたのではない。搾取されていたのだ」ということを思い知った彼は、自らの推薦でケンブリッジ大学に留学し、後に妻となる柯玉芝と共にシンガポールに戻った後に動きはじめます。
イギリス留学から帰ってきた若きスーパーエリート夫妻は、貧困に喘ぐ人たちの味方に立ち、無償で労働関係の弁護を請け負うなど、弱者の立場に立って活動をしていきます。労働組合の運動を先導するようになり、ここで法律の知識がいかんなく発揮されていきます。
勤めていた法律事務所の上司が立法審議会選挙に立候補したことから李光耀の政治活動が始まります。人民行動党を創設し、労働者階級を味方につけ、イギリスからの独立に尽力します。野党として参政してからわずか4年で過半数の議席を獲得するに至り、初代首相として教育・住居・失業問題を中心に尽力していきます。
当初はマレーシアの一部として誕生したシンガポールですが、マレー人への圧倒的な優遇政策との折衝が難しくなりマレーシアから分離。当時マレー半島の小国に過ぎなかったシンガポールは天然資源の欠乏、飲料水の確保など、基本的な生活資源にも困窮する有様でした。
不安が心の中の大部分を占めていたのは想像に難くありません。しかし、李光耀は「シンガポールについて心配する必要はありません。我々は、どんな苦境に置かれたとしても正気でいられる理性的な者たちです。我々は、政治というチェスの盤上でどんな行動を起こす際も、可能な結果を全て導き出します」と公言しています。
さてここから、本格的に国家運営をしていくことになります。