現代史・自民党①#54
後に振り返れば、今の時代は「自民党独裁政権」などと名付けられるのではと思います。
ちょうどタイミングでもありますし、現代の日本がいかにして作られたのか、政治の視点から見るのもおもしろいのではないかと思い、今回は政権与党である自由民主党の歴史をとりあげていきます。
戦後からしばらくして、政権獲得に成功した自由民主党。もともと自由党と、日本民主党が合併(保守合同と言います)して結成されました。1955年に結党されたので、この自民党一強の時代を55年体制と呼ぶ人もいます。自由党時代も含めると70年以上の歴史がありますが、政権与党じゃない期間は僅か4年程度です。自民党総裁イコール行政のトップ、内閣総理大臣という構図は戦後の日本にとっては既定路線です。現代の日本は自民党によって運営されていると言っても過言ではありません。
ときは1950年代初頭。太平洋戦争終戦から数年が経ち、当初は鳩山一郎が首相候補だったのですが、岸信介とともに公職追放を受けていたことが災いしてGHQから首相就任に待ったをかけられてしまいます。ちなみに鳩山はいわゆるA級戦犯として、数年間収監されています。そこで白羽の矢が立ったのが親米派であった吉田茂。東京帝国大学、現東大卒で外務省で役人を務めていた元官僚の吉田は、サンフランシスコ平和条約を締結、そして日米安全保障条約に調印することに成功します。とはいえこの時に結んだ安保条約は、いわば不平等条約。親米派を首相に起用したGHQの戦略は見事に成功します。
もともとは鳩山の代理というか、鳩山の公職追放が解かれたらすぐに首相の座を明け渡す約束で就任した吉田ですが、そう簡単に行政のトップである首相の地位を譲るわけありません。
一向に政権を返還する気がない吉田に対抗するべく、鳩山と岸は離党し、先に出てきた日本民主党を結党。しかしこのタイミングで日本社会党が勢力を伸ばし始め、いわゆる内輪揉めをしている場合ではないと吉田の所属する自由党と保守合同をします。
吉田は先にも書きましたが東大から官僚へと進んだ、いわば政治エリート。自分の周囲を東大卒と官僚出身者のエリートで固めようとします。いっぽう東京市議から衆議院議員、政党政治家として活動していた鳩山。政権与党になったにもかかわらずというか、なったからそうなったとでも言うべきなのか、確執が絶えませんでした。ここに吉田対鳩山・岸の構図が明確化されます。現代風に言うと、「マウントの取り合い」とでも言うのでしょうか。
アメリカとの単独講和を成し遂げた吉田ですが、これに対抗して晴れて首相になった鳩山はソ連(現ロシア)との講和、そして鳩山の後を受け継いだ岸は日米安保の改定に尽力します。吉田が結んだ安保条約では、「米軍基地は置く、しかし日本を助ける義務はない」というものでしたが、岸は「基地は置いてもいいけど日本を守ってほしい」という内容で交渉を進めていきます。大揉めに揉めたのですがなんとかこの内容は合意に達し、安保条約の改定に成功します。しかしこの改定は、まだ世界情勢が不安定な中、日本国民を戦争に晒す危険性があるということで大きな批判も生みました。瞬く間に支持率の低下した岸は失脚。その後に首相の座に座ったのが吉田の側近であり京大卒、大蔵省(現在の財務省にあたる。お金の管理を担当する省庁)トップである事務次官を歴任した池田勇人です。
経済のスペシャリストであった池田は、今後日本が景気がよくなっていくことを予測していました。そこで「所得倍増計画」と銘打って国民に大きくアピールし、結果そうなった日本国民から大きな支持を得ることになります。
いわゆる「吉田学校」のもう1人の側近であった佐藤栄作は、当初は池田に協力していたのですが、絶大なる池田の人気に焦りを感じ始めます。もともと岸信介の次の首相争いで京大卒の人間に遅れをとったことに不満を持っていた佐藤。自身は東大卒、次は自分だと思っていたようですが池田は大蔵省、そして佐藤は運輸省出身だったことが決め手となり池田の後塵を拝した経緯があります。現在でもそうですが、やはりお金を扱う部署は省庁の中でも大きな力を持っているのです。
首相を2期務めた池田ですが、3選された直後に病で倒れます。そこで佐藤に順番が回ってくるのです。不思議というかなんというか、今後も、そして2020年9月の現在も体調不良を理由にやむを得ず退陣するという流れは続いていきます。精神的にも肉体的にも厳しいものがあるのでしょう。
池田が倒れた漁夫の利を得る形で首相に就任した佐藤栄作ですが、結果的に歴代2位の長期政権となります。1位はご存知、現首相である安倍晋三です。
そうやってエリートが国を動かしていく時代が続いたのですが、佐藤の次に首相になるのはなんと尋常小学校、現在の中学校卒、様々な仕事をしながら人心を掌握することに一際長けていた田中角栄の時代がやってくることになります。