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大宮立志塾 活動日誌

偉人伝 ジャック・マー①#57

諦めなければ、成功する可能性は決して閉ざされることはない。ジャック・マーはそれを僕たちに教えてくれているようです。

 

世界最大のプラットフォーム、GAFA。アメリカの歴史に名を刻む、超巨大企業に対抗できる中国の企業が、ジャック・マー率いるアリババです。中国を世界最先端の国に押し上げた功労者の1人であるジャック・マー、彼の人生は華麗なる天才たち、例えばラリー・ペイジのような完全無欠の人物とは似ても似つかないものでした。

 

中国の、いわゆる普通の家庭に生まれたジャック。これからの時代、英語が大切だと思った当時中学生のジャックは、朝早く起きては自宅近くのホテルまで出向き、無料で観光スポットを案内するという生活をしていました。ちなみにジャックというのはその時につけられたニックネームだそうです。本名は馬雲と言います。

 

こんなに意識の高いジャックでしたが、学校の成績は芳しくなく、大学受験に2度失敗。大学進学を諦め、三輪自動車の運転手となります。

 

いったんは大学進学を諦めたジャックでしたが、このままでは良くない!と一念発起して再び勉強を始め、杭州師範学院という先生になるための大学の英語科に入学することができました。しかしながら補欠合格という、およそ優秀な成績とは程遠い内容でした。学校の勉強に興味がなかったのか合わなかったのか、一貫して熱心に勉強する割には成績は良くありませんでした。

 

いわゆる「劣等生」ぶりは就職活動時にも発揮されてしまい、30社くらい受けてすべて不採用という屈辱を味わってしまいます。ケンタッキーのアルバイトまで不採用になってしまったということです。にわかに信じがたいですね。さらにハーバードに留学しようと10回程度願書を書くのですが、全回入学拒否をされています。

 

就職活動をしても採用されないので、ある意味「仕方なく」、事業を興します。得意の英語を活かし、翻訳の仕事をする会社を始めるのですが、なかなか本業がうまくいかず、物販等で売り上げをあげる生活が続きました。出身大学の紹介でなんとか採用してもらった大学での英語講師をしながら生活費を工面していました。

 

努力の甲斐あって徐々に仕事も軌道に乗り始め、あるとき通訳の仕事でアメリカに行ったとき、ジャックは運命的な出会いを果たします。

それが、インターネットとの出会いです。

パソコンを起動し、検索エンジンで調べたい言葉を入力すると世界中の情報をすぐに得ることができる。言論統制をしている中国では見たこともなかったこの新しいツールに、新しいビジネスの可能性を確信します。

 

帰国直後、新規事業の立ち上げを宣言するジャック。しかし従業員は猛反対。「アメリカに騙されている」と言った従業員もいたそうです。

しかしジャックは譲らない。こうと決めたら必ず実行する男です。そして企業を紹介するウェブサイト、「イエローページ」を立ち上げます。

 

ジャック・マー、31歳でした。

2020年09月22日 22:01

現代史・自民党③#56

竹下登と激しく対立することになった小沢一郎は、自民党を離党。8党連立という離れ技をやってのけて自民党から政権与党の座を奪取することに成功しました。当時好感度の高かった細川護煕を首相に据えることで基盤作りにかかります。

 

しかし細川は佐川急便の社長からの収賄疑惑がかかり失脚。いわゆる佐川急便事件です。小沢と一緒に自民党を離党した羽田孜が次期首相に就任します。

 

なんといっても8党連立という、いわゆる船頭の多すぎる船。うまくいくわけもなく、小沢独裁に異を唱えるものが羽田首相の頃から噴出してきます。

 

ここに目をつけた竹下率いる自民党。連立政権の中でも多数派であった社会党に目をつけ、社会党の村山富市を首相に就けるという条件までつけて政権与党復帰を画策するのです。長らく政権与党であった自民党議員がこの時期に学んだこと。それは野党の厳しさであったと言います。連日のように訪れていた訪問者はぱったりと途絶え、政治資金獲得も困難を極め、党事務所全体に活気がなくなってしまったそうです。なんとしてでも政権奪取をという自民党の必死さが、55年体制と言われ常に対立してきた社会党と手を組むという行動に表れています。

 

かくして政権奪取に成功した自民党。村山を経て橋本龍太郎、小渕恵三という経世会出身の首相が続きましたが、まだ盤石とは言い難く、当時の参議院は野党が過半数を占める状態、いわゆる「ねじれ国会」でした。

 

ここで小渕が提案したのが公明党との連立。自民党と公明党もお互いを激しく批判し合うような間柄でしたが、政権を盤石にするにはこの方法がベストだという選択をしたようです。しかしながらあまりにもあからさまなこの連立に、世間の非難を恐れた小渕は小沢率いる自由党も連立政権に加えることを考え、そして成立させてしまいます。いわゆる「自自公連立」という時代です。

 

小沢つぶしのために動いてきたこの作戦に、小沢を味方に引き入れるという、およそ政治家でなければ理解できないこの策ですが、政治家というのはこのくらいのことができないと務まらないようです。

 

竹下登の子飼いであった小渕と、強烈な野心の塊であった小沢、うまくいくわけがなく、2人は幾度となく衝突します。そしてその最中、小渕は体調不良で任期満了を待たずに入院してしまいます。

 

ここで次期首相に就いたのが森喜朗。三木武夫、宇野宗佑のようなワンポイント首相のような形で就任した森ですが、失言等も多く国民の支持を得られず早々と失脚。いよいよ竹下再選かという雰囲気の中、なんと竹下が病死してしまうのです。

 

竹下の死去、これが派閥政治の終わりを予感させるようになります。ここで動いたのが「YKK」と言われた加藤紘一、山崎拓。野党が提出した森首相不信任案に賛成すると公言し、自らの政権獲得を目指します。これを「加藤の乱」と言い、これは結局多数の造反者が出て失敗に終わります。つい最近、吉本興業所属の芸人さんがギャラ問題を巡って発言、行動したことが話題となりましたが、あの時に使われた「加藤の乱」という言葉はこの事件のパロディになります。

 

そんな動乱の時代に首相の座を獲得したのが、「自民党をぶっ壊す」というフレーズで話題となったYKK最後の1人、小泉純一郎です。細川時代に小沢が変えた中選挙区制から小選挙区・比例代表並立制に変えたことを追い風に自分の推薦する人物を多数擁立、当選させました。「小泉チルドレン」と呼ばれ、この時に派閥政治は完全に終焉を迎えます。

 

そして現在は、いわば「世襲議員の時代」です。政治家に必要なものは「看板(知名度)、かばん(お金)、地盤(人気)」と言われますが、その全てを生まれながらに持っている2世議員は推薦しやすいわけです。前首相も岸信介の孫であり、安倍晋太郎の子であるというサラブレッド。失言等が目立つ麻生太郎は吉田茂の孫にして鈴木善幸の子を妻に持つという、これも政治家に必要なものを全て生まれながらに持っている家系です。かつてかばんを持たなかった田中角栄はじめ野心を持つ議員の多くは資金集めに必死な挙げ句、グレーゾーンに足を突っ込み失脚することになりました。今でもその類の話はなくなることはありませんが、まぁ規模というかスケール感は当時を知っている人からすれば小さいようです。

 

かくして自民党は、長年にわたって一強の時代が続いていますが、派閥闘争があったことで他国の二大政党制のような雰囲気を持ち、その中で国民の意見を吸い上げていくという側面がありました。その時代は党首ではなくても、党の有力者の推薦があれば立候補することが可能でした。現在のように小選挙区制という、党首の推薦がなければ立候補すらできない選挙制度は、イエスマンばかりを生み、党の意向に反対しにくいという負の要素もあります。ちなみに現在も派閥は完全に消滅したわけではなく、福田赳夫の流れを汲む森、小泉等を輩出した清和会、竹下が田中派の多くを囲い込んで作った経世会、池田勇人、大平正芳の流れを組む宏池会が三大派閥と言われています。

 

願わくば突拍子もないような変人が現れ、また新しい政治の流れを作って欲しいななどと、新首相誕生の報道を見ながら思った、秋の1日でした。

2020年09月17日 15:39

現代史・自民党②#55

まるで「東大卒じゃなければ人でなし」「大蔵省出身じゃない人間に何ができる」とでも言うべき自民党総裁選レースに、まさに異色の経歴で割って入った田中角栄。尋常小学校、現在でいうところの中学校卒業という学歴ながらも郵政大臣、通産大臣、そして大蔵大臣を歴任。実学で身につけた圧倒的な知識量と、決めた事は徹底的にやり抜く実行力で多くの人の心を掴むことに成功していきます。全国50位以内に入る土建屋の社長であった田中は、その豊富な資金でここぞという時には多額の金を惜しげもなく使い、当時官僚エリートじゃなければ当選しなかった総裁選に当選を果たし、内閣総理大臣の座を射止めることに成功します。

 

田中は高度経済成長を追い風にして「日本列島改造論」を打ち出し、交通網、情報網のインフラ整備、都市開発を行っていくと公約に掲げます。これが国民の支持を受け、同名の著書は91万部を売り上げるベストセラーになります。

 

しかしながら国民がこぞって土地を購入したのと、ほどなくして起こったオイルショックが重なりハイパーインフレが起こります。列島改造論は一定の延期や中止を余儀なくなれてしまいます。

 

このタイミングで、ファミリー会社が購入した4億円の土地が直後に数百億円に跳ね上がったことを週刊誌に指摘されたり、いわゆるロッキード事件が発覚するなど、国民の支持率は急降下。田中は退陣を余儀なくされ、長い裁判に入ります。これについて田中は「一部の東大卒の政治家と、アメリカの陰謀だ」と主張し、徹底的に争う姿勢を見せました。真実は分かりませんが、アメリカが田中を陥れようとしたとする根拠に日中国交正常化と日本独自のエネルギー外交があったと言われています。オイルショックが教訓となったのでしょうが、アメリカに頼らない独自の政策をしていくという姿勢がこのような事態を招いたと言われています。

 

この後田中は首相の座に就くことはありませんでしたが、その影響力は絶大でした。「闇将軍」と言われ、自らの息のかかった人物を首相やその他要職に就くように画策します。

 

この時代は「角福戦争」と言われた時代で、ライバルとなったのが福田赳夫。東大卒、大蔵省出身という、まさに完全無欠の福田は緊縮財政を主張し、首相就任後は経済の引き締めを行いました。インパクト、新鮮味にもに欠ける福田の支持率は常に低く、いつ首相交代劇が起こってもおかしくない状態でした。

 

福田の後を継いだのが大平正芳。この大平こそが田中の最も優秀な部下の1人で、田中内閣誕生の時にも一役買い、そして福田が再選を狙って総裁選に出馬したときには大がかりな集票作戦を田中の元で敢行し、大差で福田を降す快挙を成し遂げました。下馬評では圧倒的に福田有利だったのですが、予想外の敗戦を喫し、「天の声にも、変な声がたまにあるな」という言葉を残して福田は総裁を退任しました。

 

ここで落ち着くかと思いきや、大平は在任中に70歳で急死してしまいます。ここでまた田中は動き、大平派の鈴木善幸をワンポイントで首相に就任させます。鈴木は角栄直属ということで「直角内閣」、その後の中曽根内閣は「田中曽根内閣」などと言われ、角栄の影が常に見え隠れする時代が続きます。

 

田中は裁判が終結したら再び自分が首相を務めるつもりでいました。しかしこの「闇将軍」時代が長く続き、田中派の人々も年齢を重ねます。また田中が首相に戻るようなことがあったら自分たちの順番はまわってこないのではないか、そんな不信感が募り始めたところで登場したのが竹下登。金丸信の後ろ盾を得て、少しずつ仲間を集めていきます。着々と首相への準備をしていたのですが、この動きが田中にリークされ、田中は大激怒。竹下は謝罪に田中の邸宅を訪れるものの門前払いをくらい、大騒動に発展します。

 

金丸も交えて、なんとか折り合いのついた竹下は経世会という会を結成。田中派の若手のみならず、多くの議員を従える最大派閥に成長し、満を持して首相に就任。しかし僅か1年半ほどで失脚してしまうのです。

 

歴史は繰り返しますね。田中はロッキード事件により失脚。そして竹下はリクルート事件が明るみに出て失脚することになります。リクルート傘下の不動産会社から未公開株を受け取ったという収賄罪で首相辞任を余儀なくされてしまうのです。

田中角栄の後の三木武夫のように、竹下登の後のピンポイント総裁に宇野宗佑が就任。しかしあっという間にスキャンダルで降板。竹下と同じ早稲田大学卒業の海部俊樹に白羽の矢が立つことになります。宇野、海部、そして宮澤喜一と、竹下派の人間が首相になる時代が続きます。

海部首相の時に幹事長であったのが小沢一郎。この人事が様々な憶測を生み、もともと縁戚関係だった竹下と小沢は仲違い。小沢は羽田孜と共に離党する騒動にまで発展していきます。

 

ここまで書いて思ったのですが、日本をこう変えたいとか、国民のためにこういう事業を興したいとか、全く出てきません。

 

とにかく首相になりたい人間の、なんとも感想を持ちにくい人間模様ですね。

2020年09月15日 20:03

現代史・自民党①#54

後に振り返れば、今の時代は「自民党独裁政権」などと名付けられるのではと思います。

 

ちょうどタイミングでもありますし、現代の日本がいかにして作られたのか、政治の視点から見るのもおもしろいのではないかと思い、今回は政権与党である自由民主党の歴史をとりあげていきます。

 

戦後からしばらくして、政権獲得に成功した自由民主党。もともと自由党と、日本民主党が合併(保守合同と言います)して結成されました。1955年に結党されたので、この自民党一強の時代を55年体制と呼ぶ人もいます。自由党時代も含めると70年以上の歴史がありますが、政権与党じゃない期間は僅か4年程度です。自民党総裁イコール行政のトップ、内閣総理大臣という構図は戦後の日本にとっては既定路線です。現代の日本は自民党によって運営されていると言っても過言ではありません。

 

ときは1950年代初頭。太平洋戦争終戦から数年が経ち、当初は鳩山一郎が首相候補だったのですが、岸信介とともに公職追放を受けていたことが災いしてGHQから首相就任に待ったをかけられてしまいます。ちなみに鳩山はいわゆるA級戦犯として、数年間収監されています。そこで白羽の矢が立ったのが親米派であった吉田茂。東京帝国大学、現東大卒で外務省で役人を務めていた元官僚の吉田は、サンフランシスコ平和条約を締結、そして日米安全保障条約に調印することに成功します。とはいえこの時に結んだ安保条約は、いわば不平等条約。親米派を首相に起用したGHQの戦略は見事に成功します。

 

もともとは鳩山の代理というか、鳩山の公職追放が解かれたらすぐに首相の座を明け渡す約束で就任した吉田ですが、そう簡単に行政のトップである首相の地位を譲るわけありません。

 

一向に政権を返還する気がない吉田に対抗するべく、鳩山と岸は離党し、先に出てきた日本民主党を結党。しかしこのタイミングで日本社会党が勢力を伸ばし始め、いわゆる内輪揉めをしている場合ではないと吉田の所属する自由党と保守合同をします。

 

吉田は先にも書きましたが東大から官僚へと進んだ、いわば政治エリート。自分の周囲を東大卒と官僚出身者のエリートで固めようとします。いっぽう東京市議から衆議院議員、政党政治家として活動していた鳩山。政権与党になったにもかかわらずというか、なったからそうなったとでも言うべきなのか、確執が絶えませんでした。ここに吉田対鳩山・岸の構図が明確化されます。現代風に言うと、「マウントの取り合い」とでも言うのでしょうか。

 

アメリカとの単独講和を成し遂げた吉田ですが、これに対抗して晴れて首相になった鳩山はソ連(現ロシア)との講和、そして鳩山の後を受け継いだ岸は日米安保の改定に尽力します。吉田が結んだ安保条約では、「米軍基地は置く、しかし日本を助ける義務はない」というものでしたが、岸は「基地は置いてもいいけど日本を守ってほしい」という内容で交渉を進めていきます。大揉めに揉めたのですがなんとかこの内容は合意に達し、安保条約の改定に成功します。しかしこの改定は、まだ世界情勢が不安定な中、日本国民を戦争に晒す危険性があるということで大きな批判も生みました。瞬く間に支持率の低下した岸は失脚。その後に首相の座に座ったのが吉田の側近であり京大卒、大蔵省(現在の財務省にあたる。お金の管理を担当する省庁)トップである事務次官を歴任した池田勇人です。

 

経済のスペシャリストであった池田は、今後日本が景気がよくなっていくことを予測していました。そこで「所得倍増計画」と銘打って国民に大きくアピールし、結果そうなった日本国民から大きな支持を得ることになります。

 

いわゆる「吉田学校」のもう1人の側近であった佐藤栄作は、当初は池田に協力していたのですが、絶大なる池田の人気に焦りを感じ始めます。もともと岸信介の次の首相争いで京大卒の人間に遅れをとったことに不満を持っていた佐藤。自身は東大卒、次は自分だと思っていたようですが池田は大蔵省、そして佐藤は運輸省出身だったことが決め手となり池田の後塵を拝した経緯があります。現在でもそうですが、やはりお金を扱う部署は省庁の中でも大きな力を持っているのです。

 

首相を2期務めた池田ですが、3選された直後に病で倒れます。そこで佐藤に順番が回ってくるのです。不思議というかなんというか、今後も、そして2020年9月の現在も体調不良を理由にやむを得ず退陣するという流れは続いていきます。精神的にも肉体的にも厳しいものがあるのでしょう。

 

池田が倒れた漁夫の利を得る形で首相に就任した佐藤栄作ですが、結果的に歴代2位の長期政権となります。1位はご存知、現首相である安倍晋三です。

 

そうやってエリートが国を動かしていく時代が続いたのですが、佐藤の次に首相になるのはなんと尋常小学校、現在の中学校卒、様々な仕事をしながら人心を掌握することに一際長けていた田中角栄の時代がやってくることになります。

2020年09月10日 15:28

偉人伝 李光耀 ③#53

首相となった李光耀の前には、解決しなければならない問題が山のように積み上がっていました。その1つひとつに、誠実に対応していきます。

 

まず、独立国としての認識を世界に広げたいという目的から1965年に国際連合に加盟、そして1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)を設立しました。インドネシアと良好な関係を築き、シンガポール人としての文化、ナショナリズムを作ることに力を入れていきます。

 

経済政策については早急に取り組まなければならず、イギリスから独立したことにより失った、10万人とも言われる雇用の喪失を取り戻す必要がありました。しかしながら地場産業を持たないシンガポールの雇用はなかなか良くなりませんでした。

そこで経済特区を作り出し、外国の企業を積極的に誘致し輸出志向型の工業化戦略を打ち立てます。税制面でとても優遇されたこの地に、当時世界最先端の技術を持つ企業が次々と参入しました。と同時に、政府は経済の厳重な統制を維持し、土地と労働、資本的資源の配分を管理しました。ようするに外国資本に好きなようにはさせないように管理をしていたのです。

この政策が軌道に乗り始めると安定した経済成長を遂げ、インフラも急激に整備されていきます。

そして観光にも力を入れ、外国人観光客を誘致するために観光局を設立しました。徹底的なクリーン政策もその一環であると言えます。「東南アジアは衛生面で問題がある」というイメージを一掃することに成功しました。その結果、サービス産業で多くの雇用を創出することができました。観光はシンガポールにとって重要な外貨獲得の手段の一つとなっていきます。

この取り組みは、世界でも注目を浴び、たくさんの政治家、経営者がシンガポールに学びにやってくるようになりました。中国民主化の父とも言われる鄧小平氏もその名を連ねています。当然ながらシンガポールの雇用は劇的に回復し、今や世界有数の経済大国であることは知っての通りです。

 

シンガポールでは、英語で授業がなされてはいますがマレー語、タミル語も公用語として認め、ここにもナショナリズム獲得のための取り組みを見ることができます。教育にもとても力を入れ、自身が学んだラッフルズ大学はシンガポール国立大学と名前を変え、清華大学がトップになる以前はアジアで1番の大学として名を馳せていました。

 

汚職が国家を滅亡させるという信念を持ち、徹底的にクリーンな政治を標榜しました。実際に数多くの大臣が逮捕、失職という目に遭っています。まさに国家の地位向上に全精力を注いだ、真の政治家と言えるのではないでしょうか。

 

独裁政権と聞くと、なんとなくマイナスなイメージを持ちますが、こういう形もあるんだと、とても感銘しました。体調不良で任期を全うすることができず、そしてその直後に水面下では次期首相が決まっているという、なんともクリーンなイメージを持つことの難しい今の日本に、李光耀のような人物が登場してくれることを願うばかりです。

2020年09月08日 13:36

偉人伝 李光耀 ②#52

さて、弁護士を目指すべくケンブリッジ大学に留学した李光耀ですが、そこで体験したのはしっかりと存在する人種差別でした。素晴らしい仲間ともたくさん出会えたのですが、そういう人は白人の中でも珍しい方の人間だったと知ります。「自分たちはイギリス人に守られていたのではない。搾取されていたのだ」ということを思い知った彼は、自らの推薦でケンブリッジ大学に留学し、後に妻となる柯玉芝と共にシンガポールに戻った後に動きはじめます。

 

イギリス留学から帰ってきた若きスーパーエリート夫妻は、貧困に喘ぐ人たちの味方に立ち、無償で労働関係の弁護を請け負うなど、弱者の立場に立って活動をしていきます。労働組合の運動を先導するようになり、ここで法律の知識がいかんなく発揮されていきます。

 

勤めていた法律事務所の上司が立法審議会選挙に立候補したことから李光耀の政治活動が始まります。人民行動党を創設し、労働者階級を味方につけ、イギリスからの独立に尽力します。野党として参政してからわずか4年で過半数の議席を獲得するに至り、初代首相として教育・住居・失業問題を中心に尽力していきます。

 

当初はマレーシアの一部として誕生したシンガポールですが、マレー人への圧倒的な優遇政策との折衝が難しくなりマレーシアから分離。当時マレー半島の小国に過ぎなかったシンガポールは天然資源の欠乏、飲料水の確保など、基本的な生活資源にも困窮する有様でした。

 

不安が心の中の大部分を占めていたのは想像に難くありません。しかし、李光耀は「シンガポールについて心配する必要はありません。我々は、どんな苦境に置かれたとしても正気でいられる理性的な者たちです。我々は、政治というチェスの盤上でどんな行動を起こす際も、可能な結果を全て導き出します」と公言しています。

 

さてここから、本格的に国家運営をしていくことになります。

2020年09月03日 16:01

偉人伝 李光耀 ①#51

参考文献:リー・クアンユー回顧録

 

日本戦後史上最長の政権がまもなく終わりを告げるようですが、今の日本に本当に必要なのはこういう人だと僕は思います。

 

シンガポールの首相を25年にわたって勤め、マレー半島の先端の小国を光り輝く経済大国に成長させた李光耀(リー・クアンユー)。イギリスが支配していた時代に客家系華人の4世として生まれ、祖父はイギリス人の乗り込む貿易船で働く裕福な家に育ちます。この祖父の影響を大きく受けて李光耀は英語で教育を受けるようになります。光耀という華名とともにHarryという英語名も授けられ、幼い頃からとても優秀であったようです。逆に中国語はほとんど話すことができず、マレー語と英語を使ってコミュニケーションをとる青年でした。

 

ラッフルズ大学(後のシンガポール国立大学)に進学、勉学に勤しんでいた最中、太平洋戦争による日本軍のシンガポール占領という事態に巻き込まれます。大学は閉鎖、闇市で物を売って生計を立てる生活となります。

 

シンガポール華僑粛清事件の際は、李光耀も対象になっていて集合場所に集められたのですが、何か嫌な予感を感じて逃亡。難を逃れます。その後は中国語と日本語の学習を始め、日本軍とともに働くことを選びます。連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する仕事をしていました。

 

当時は連戦連勝だと報道していた日本軍ですが、英語が堪能であったことから戦局は連合国側に有利だということはいちはやく掴んでいたようです。そして「耳慣れない爆弾が、ヒロシマとナガサキに落とされた」という情報を得た後、日本の植民地支配は急に終わりを告げます。

 

再びイギリスの支配に戻ったシンガポールですが、戦前の紳士然とした、優雅なイギリス人はそこにはいませんでした。戦前「極東の小さな国が何か騒いでいる」くらいの意識でいたイギリス人は、その極東の小国が攻め込んできた時にはほとんど戦いもせず、我々現地の人間を見捨てて一目散に逃げ回った。新しく支配した日本軍は、聞いていたのとはまるで違う激しさと強さを持っていた。この約3年半の間で、人間について深く考えるようになったと、李光耀は後に思い返しています。

 

戦後の混乱した中を、李光耀は再び闇市でいろんなものを売って生計を立てていきます。売るものがなくなった時は建設業の仕事を請け負い、現地人を何人か使って仕事をするようになります。とてもたくましく生きていきました。

 

そしてそんな時、ラッフルズ大学が再開。彼は弁護士を志し、イギリスに留学をしたいと思うようになります。

 

余談ではありますが、大学の成績発表の時、秀才で通っていた李光耀は第2位という成績でした。第1位だったのは柯玉芝(クワ・ゲオ・チュー)という女性で、後の李光耀の妻となります。

 

無事にケンブリッジ大学への留学試験を突破した李光耀。ここからまた、彼は多くのことを学んでいきます。

2020年09月01日 13:08

中学1・2年〜習慣づけ〜#50

前回の記事で、難関大学に現役合格を果たした人たちの1つの生活パターンを紹介しました。

 

ご覧になった中学生は「こんなに勉強するんだ…。」と思ったかもしれません。

 

では彼らが中学生のときはどうだったのでしょうか。

 

確かに彼らの中には中高一貫校の出身者も多く、当時からしっかり勉強している人もいたのですが、意外と「まったく勉強していなかった」「勉強したのは宿題と定期試験前くらいだった」と答えている人もちらほらみられました。まぁそれは極端な例だとしても、1日の平均勉強時間が30分程度の人もたくさんいます。

 

ただし、彼らに共通しているのは「毎日何かしらの勉強はしている」ということ。先ほどのような返答をしている人もよくよく聞いてみればバスの中で英単語を覚えていたり、見たいテレビ番組の合間に教科書を開いたりしていました。「勉強している」という意識がないままに何かしらの予習、復習につなげていたことになります。

 

あとは「いま、何の勉強をしているのか」を徹底的に明確にしているのも共通しているところだと言えます。数学であればどの公式、どの解法を利用して解くとか、歴史であれば時代背景をしっかり読むとか、習うことが何につながっているのかを理解したうえで覚えていきます。先にあげた歴史の話を例にすると、一見年号と事件だけを覚えていった方が記憶することは少ないように見えますが、当時の世相や流行、それまでの経緯などをつかんでおいた方が知識を整理することができ、結果スムーズにたくさん覚えることができるのです。クローゼットの中に何でも詰め込んでしまうのと、カラーボックスなどの収納用具を利用して整理してしまっていくのと、どちらが必要なものを取り出しやすいかという話に似ています。

 

工夫は他にもいろいろとあるのですが、結論として難関大学に合格する人の中学時代は長時間勉強が必須ではないようです。毎日少しずつでも知識を増やし、整理していく。これくらいならできるという人も多いのではないでしょうか。

 

少しでも興味があるようならば、諦めるよりは試してみる価値は十分にあります。

2020年08月27日 14:09

大学受験生の1日のパターン#49

ここ数年、世間では「ゆとり世代」などと言われ、実際に学力低下が叫ばれていました。世界の大学ランキングでも日本の大学は大きく順位を落としています。

日本では中国や韓国と違い、大学に入学した時点で強制的な勉強は終了します。入学後にも勉強を続ける学生は当然ながら存在しますが、どちらかと言えば大手企業にコネクションをたくさん持っている教授やラクに単位をくれる教授の授業が人気になるのはどこの大学でも共通しています。アルバイトをしたり、長期旅行に行ったり、いろいろと学業以外のことに勤しみます。それはそれで、よいところもあるので一概に外国が良くて日本が良くないということではないと僕は考えています。

 

学力が低下したとはいえ、そんな簡単に、有名大学に入れるわけではありません。今回は難関大学(東大、京大、早慶上智、同志社)に現役合格を果たした受験生がどのような生活を送っていたか、1つのモデルケースを紹介します。これが全てではありませんので、1つの例として参考程度にしていただければと思います。

 

意外と部活をしっかりやり切ってから大学受験に臨むという人も多かったので、引退してからの夏以降を設定します。

 

だいたい午後4時くらいには授業が終わり、帰宅までに1時間くらいはかかるとしても夕食前に1時間くらい勉強します。そして食事や入浴を済ませ、だいたい12時くらい、朝早めに起きて勉強しない人は1時くらいまで勉強しています。

割と共通していたのが、以前にも書きましたが睡眠時間の確保。5〜7時間くらいはしっかり確保している人が多かったです。あとほとんどの人が実践していたのが、1回の勉強時間は長くても1時間30分まで。50〜60分くらいで休憩をしている人がほとんどでした。

しかし、休憩の取り方が特徴的で、まさに「脳を休める」ということにのみ時間を使っています。一般的に行われる(であろう)携帯電話をチェックする、テレビを見る、お菓子等の夜食を食べるといった行為はその日の勉強時間が終わった後にするという人ばかりでした。中にはそういったものを一切遮断している人もいました。これをやってしまうと10分休むつもりが20分になり、気がついたら1時間程度は軽く経過してしまうというのが大きな理由でした。そもそも携帯電話を部屋に持ち込まないというのも共通していました。

 

過去問については、11月くらいからという人が多かったです。それまでの基礎固めに時間をかけています。特に国立大学においては超難問は解けなくても十分に合格点に達するため、基礎問題、標準問題を一瞬で解ける練習をひたすら繰り返していきます。それでも最終的には10〜25年分の過去問を解くのですから、やはり時間の確保は並大抵ではありません。

 

あと彼らの多くは、食事を待っている時やトイレに入っている時、あとは電車やバス通学の人はその中でのインプットの時間(英単語や地歴の一問一答など)を勉強時間とカウントしていませんでした。「そういえばあれも勉強かな」といった感覚でした。

 

休日も起きる時刻は変えず、学校に行っているのとほぼ同じタイムスケジュールで勉強するため、10〜13時間くらいはトータルで勉強します。

 

勉強は、時間をかければかけるほど絶対に伸びていきます。やり方が間違っていたり、我慢ができないと伸びは止まってしまいますが、正しいやり方でしっかり時間をかければどんな人間でも確実に伸びていきます。数年前に偏差値30台の女子高生が慶應大学に合格した実話をもとにしたドラマが大ヒットしましたが、あれは努力した本人と正しい努力をさせた講師の方法論が結実したものです。あの話ほど有名ではなくても、そこまで学力が高くなかった受験生を有名大学に合格させたという話はそこそこ力のある講師なら1つくらいは持っているものです。

 

身も蓋もないような言い方かもしれませんが、いかに時間をかけるか。正しい努力ができるかが重要です。少しでも興味があるのならば「自分なんて」とやる前から諦めてしまうよりも、試してみる価値は十分にあると思います。

2020年08月25日 09:10

数学は暗記?#48

受験においても数学は、英語と並ぶ最重要科目の1つです。学校以外の学習ツール(学習塾や添削教材など)においても、数学を採っている人は多いと思います。

 

まるで一種のアレルギーのように、数学を苦手にしている中高生は多いですね。かく言う僕も数学はとても苦手でした。

 

しかし裏を返せば、数学が得意になればライバルたちに差をつけることができると言うことです。今回は数学の学習法について書いてみます。

 

まず、数学にひらめきやセンスは必要ありません。僕が話す「数学」とは高校までで習う数学なので、ここまでのレベルの問題を解くのにセンスは必要ありません。

 

言ってしまえば、数学も暗記系科目です。自分が記憶した解法のパターンを、答案に再現することで正解と判定されます。

 

ただ他の科目と異なるのは、出題形式や問題の見せ方が無数にあり、全く同じ問題が出る確率が他の科目より少ないということです。

 

ここで他の科目と少し学習法を変える必要性が出てくるのです。

 

よく言われるのが「練習問題を解きまくる」といった類の学習法。たくさん練習することによって慣れていくというものです。この学習法が提唱されること自体、数学が暗記科目であることの何よりの証明です。

 

しかし僕は、ただ解きまくるだけでは少し効率が悪いと思っています。練習問題を解く前に公式の紹介、例題の解説を読んだり聞いたりすると思いますが、それと練習問題を紐付けで覚えていくととても理解が深まります。そして、理想は3日おきに復習すること。この際の復習は実際に計算まではしなくてもよく、解法の確認まででも大丈夫です。実際に計算までやってしまうと時間もかかるでしょうし、効率的ではありません。淀みなく解法が出てきたら◎、2〜3秒程度考えて解法が導き出せたら◯、解説を読んで理解できたら△、全くわからなかったら×といったかんじで自分の理解度と日付を記録しておきます。

試験勉強を2週間前から取り組むとして、3日おきに復習したら4回は復習できます。そして4回目は、時間も意識しながら実際に問題を解いてみます。

 

数学では、特に簡単な問題から解いていくのが大切です。簡単な問題の繰り返しが、少し複雑な問題の基礎固めに最適な場合が多いからです。苦労してなんとか解ける問題はそんなに何度も繰り返せるものでもないし、最初に手をつけてしまうと疲れてしまいます。全く解けない難しい問題だと、結局「難しい」ということだけが記憶されてしまい、全く勉強になっていない場合があります。

 

不思議なもので、簡単な問題を徹底的に反復し、どの公式と、どの解法と関連性があるのかまで把握するレベルになると、思っているより多くの応用問題を解くことができます。難関大学に合格するような受験生がメインで使っている問題集や参考書が、教科書レベルの基礎問題を扱っているものである割合は驚くほど高いです。そのぶん予想以上に反復していますけどね。

 

結論づけると、簡単な問題を深く理解して解き進めていく。特に公式との関連づけはしっかりする。

スポーツと同じで、基礎のやりこみが大切だと思います。数学が苦手な人は、ぜひ一度試してみてください。

 

2020年08月20日 17:27

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